みちべぇの道

道だとか橋だとかが好きで、走ったり歩いたり道に迷ったり

月のウサギは可哀そう?

先日、中秋の名月の日、いつものジョギング後

ガーミンさんがバッジをくれました。

ガーミンさんは時々、走ったご褒美なのか何なのか

バッジをプレゼントしてくれるのです。

今回は「中秋節」バッジでした。

 

夫に

中秋節のバッジもらった」

と自慢?すると、夫は

「どうせ、月でウサギが餅ついてる絵でしょう」

と、何故か不愉快そうに言ったのでした。

 

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その通り w

中秋の名月といえば月のウサギよね。

しかし夫よ、なぜ君は不愉快げな顔なのだ?

 

夫「テレビで、『月のウサギの由来』の話をしてた

  嫌な話だった」

 

へ? 月のウサギの話って、そんな嫌な話だっけ?

あれは、確か・・・

 

昔、老いた旅人が、サル、キツネ、ウサギの前に現れました。

老人は、たいそうお腹を空かせていてヨレヨレでした。

サル、キツネ、ウサギは老人のために食べ物をとりにいきました。

サルと、キツネはそれぞれに食べるものを持ってきて

老人に与えましたが、ウサギはうまく食べ物を見つけることができません。

ウサギは、老人に食べてもらおうと、焚き火に自らの身を投げ

死んでしまいました。

実は、老人は帝釈天という神様で、ウサギを哀れに思い

月に上げたのでした。

 

という感じの話だったよね。(はしょり過ぎ?)

哀れというか気の毒というか、

でも、今はウサギは月で楽しく餅をついているんだから

浮かばれたんじゃない?

 

夫「ウサギがどれだけ悩んで火に身を投げたか、

  老人は想像できなかったんだろうか

  神様のくせに。

  月になんて上げなくていいから、

  生きているときに、幸せにしてあげればいいのに

  神様だったらそれくらいできるだろうに。

  人を(ウサギだけど)試すようなことはするなよ」

 

ふむ、そうか

神様が、人の(ウサギだ)気持ちを試したこと、

人の(ウサギだってば)命が犠牲になったことが嫌だったのだね。

確かに私も、気持ちを試すような奴は「何様?」と思うし

誰かの犠牲の上に成り立つ幸せってどうよ、と思う。

だから「アルマゲドン」も宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」も嫌いだし

アンパンマンに「ぼくの顔をお食べ」と差し出されても、お断りする。

(死にそうにお腹がすいてたら食べるかも、もっとよこせ、って言うかも)

 

 

ここからはみちべぇの勝手な妄想です

 

月のウサギの話は、帝釈天が出てくるくらいだから

仏教の法話的な話なのかな。(全然外しているかも)

私が読んだ、数少ない仏教の本によると

仏教とは本来、心の平穏を説いたもので

仏陀という人は、死後の世界のことも奇跡のことも

語っていないし、信じちゃいないのですよね、確か。

 

月のウサギの話で、最も言いたかったことは

「良い行いをすれば心は安らかになる。」

という、とてもシンプルなもので

ウサギは、老人のために良かれと思ってやったのだから

たぶん、幸せなんですよ、きっと。

この犠牲が正しいかは、また別の問題。

死後の幸せとか、気持ちを試すとかは、よけいなお話。

 

神様は、キツネもサルも月に上げればよかったのよね

皆、愛をもって老人の役に立ったのだもの。

 

 

思うに、仏陀が説いた仏教を後世に伝えるために

仏陀の弟子や、そのまた弟子によって

いろんな逸話や物語やたとえ話が作られ

それらが多々の言語を経て世界に広まっていった。

そして、聞く側の人々は、老若男女、富める者、貧しい者

教養のある者、ない者、賢者、凡夫 etc..

そんな、いろーーんな人たちに解ってもらうよう

伝えるのは本当に大変だったのだでしょう。

更に、伝える人の主観や好みが入り、話は違う方向に飛び

そして、長い年月の中で本来の教えから離れていってしまった

ところもあるのではないかと思います。

 

伝えるって難しいですね。