みちべぇの道

道だとか橋だとかが好きで、走ったり歩いたり道に迷ったり

討ち入りの日に義母を想う

今日は12月14日、赤穂浪士討ち入りの日?

いいえ、夫の母、亡き義母の誕生日です。

 

毎年、討ち入りの話を耳にする季節になると「誕生日プレゼントどうしよう」と考えていた。「何か欲しいものありますか?」と聞くと「いいわよそんなの、なーんにも要らない。欲しかったら自分で買うわ」と、全く物欲がなく、かつ、さっぱりした物言いの人だった。

姉後肌、竹を割った性格でもあったかな。

 

宮城県で7人姉弟の長女として生まれ、女学校を卒業してすぐ結婚、3人の男の子を設けた。

40代のとき夫を癌で亡くした。

住んでいた社宅を出なくてはならない。専業主婦で仕事をしたこともない。亡くなった義父は生命保険に入っていなかった。義母の苦労は想像に難い。

3人の息子たちは、それぞれ大学生、高校生、小学生とあまり手がかからなくなってきたとはいえまだお金は掛かる。義母は午後から深夜まで、料亭で仲居として働くことにしたのだそうだ。

義母はその頃の思い出を苦労話としてではなく、楽し気に語ってくれた。

同僚と仲良くなって今も交流が続いていること、同僚と野球を見にったこと、こんな面白いお客がいた、等々。もちろん辛いこともあっただろうが、どんな話も義母の口から出ると笑い話のようになるのだった。

 

夫と結婚するとき、「実家で母と同居してほしい」と言われた。

深く考えずに了解した。長兄次兄の二人は既に家を出ていて、夫は義母と二人で暮らしていたのだから、そこに私が入るのが一番面倒がなくて良いと思った。その時義母はもう仕事をしていなかったので、私は仕事を続けようと打算的な考えもあったかもしれない。

義母は私に対しては、嫁というよりは娘のように接してくれた。私が仕事から帰ると夕食のおかずができており、夫の洗濯物は洗ってあり、部屋の掃除も平日のうちに済ませ「あなたは休日はしっかり休んで」と労ってくれた。私も最初はそれに甘えた。

だが、そんな生活を続けるうちにお互いに苦しくなっていったのだと思う。

私は若く、いろいろ気を遣ってくれる義母を負担に感じはじめ、掃除や洗濯等、自分たち夫婦の家事は自分でやりたいと夫に訴え、義母との関係は何となくギクシャクしたものになっていった。

同居して1年たち、ある日義母が「あなたたちは若いから、しばらく二人で暮らしなさい」と言い、夫と私は実家から車で1時間の隣街に引っ越すことになった。夫は母親思いなので、義母が言い出さなかったら別居することはなかっただろう。義母は私を解放してくれた。

 

数年後、娘が生まれた。

義母はことのほか娘を可愛がった。

義母の家に行くと、「M(娘)や、おばあちゃんのところにおいで」と、娘を抱き、あやし、遊んでくれた。育児に疲れていた私は、その間娘から離れることができリフレッシュできたのだった。義母は孫が可愛いこともあったのだろうが、私を休ませるために娘に付きっきりでいたのだと思う。

 

娘は中学生になり、不登校になった。

義母にその話をすると、「学校なんか行かなくていい、うちにおいで」と。

そんなわけにはいかないが、その言葉は私を少し楽にした。

「Mだけでもいいから家に遊びにおいで」、そんな義母の言葉に、おばあちゃん子の娘は「行きたい」と答え、度々、一人で義母の家に行った。

 

娘に、「おばあちゃんとどんな話するの?」聞くと

娘「おばあちゃんは『お母さんを大事にするんだよ』ってよく言うよ」

何だか、嬉しくて申し訳なくてもったいなくて。。。

 

娘は結局中学に行けなかったが、今は立派に社会人として生きてる。

義母のおかげだと思う。

 

私たち夫婦が義母の家を出た後、長兄家族と同居の話を断り、義母は最後まで一人で暮らした。

同じ市内に住んでいる妹たちが遊びに来たり、近所の人がお茶のみに来たり、気ままな生活を楽しんでいたようだった。

とても元気だったが、ある日ゴミを出しの時 家の前で転倒し、近所の人が救急車を呼んでくれた。足を骨折していてそのまま入院となった。

そして、容体が急に悪くなり亡くなった。88歳だった。

義母らしい潔さで逝ってしまった。

 

誰にも迷惑をかけたくないという思いが強かったのだろうか。

だとしたら、思い通りに生きたということか、その気合、見習いたい。

お義母さん、あなたが慈しんでくれたMは私を大事にしてますよ。

その愛も見習いたい。感謝しています。