そういえば、我が家の韓国唐辛子の鉢に突如生えたキノコ
あの後、昼に見たら笠がすぼまり、夜にはしなびて根本から倒れてしまった。
キノコ、生き急ぎ過ぎ(T_T)
でも、数時間ではあるけど胞子を飛ばしただろうから、いつかまたその辺から生えてくるかも知れない。
その代わり、でもなんでもないけれど
朝ランのコースをちょっと変えてみたらば
キノコみたいな木を見つけた
キノコ好きの人が剪定したのかな
今週に入って暑くなり、ようやくアブラゼミの鳴き声も聞こえてきた。
先週の朝ラン時の気温が23度、今週は25度。2度違うだけで全然違う。
昔の私は汗をかけない人間で、アニメ「スラムダンク」の流川君が、バスケの試合で顎から汗を滴らせて戦う姿を「なんてカッコイイんだろう」と称賛の目で見ていた。今の私は、25度の中をノコノコ走っただけで頭から目の下から汗が噴き出、ハンドタオルで拭き拭き走る。自分なんだかおじさんっぽい(おばさんではなく)と感じる今日この頃であった。
夏だものねぇ。辺りの景色を見ると
田んぼの稲は青々と育ち
セイタカアワダチソウも、いつの間にかすくすくと伸びている
秋に実をつける稲、秋に花を咲かせる草が、今も着々と準備を進めている。
夏の中に秋はあるのね。
毎日走っていて(毎日じゃないけど)見るたび変化がある。季節は流れるように変わっていく。今日の景色は今日しかない。
全て変わっていくんだよね。人も。
先日の、大菩薩に行った時のモヤモヤを思い返す(しつこい)。
夫はいつもの夫だった。私の怒りは私の問題だ。そして、今のままではあのような怒りを繰り返すことになるという確信に暗澹となる。まだ先は長いのだ(わからないけど)。
今、落ち着いて考えると、あれもまた老いることへの不安の表れだったのかな、と思う。
年を取るにつれ、体力も知力も衰え、それ故に気難しくなるのは仕方のない事。加えて夫婦は慣れ過ぎ、対話を面倒がり、気を使わなくなる。ある時「この人、こんな人だっけ」と違和感を感じ、それが怒りに変わり嫌悪に変わり。
先日読んだ本に、30年連れ添った夫と熟年離婚した女性が「夫の煎餅を食べる音が気になって」と、離婚の理由の一つを述べていたという記述があった。きっと煎餅だけではなくその他にも色々なズレや違和感や怒りがあって我慢できなくなったのだろうな。女性の気持ちがわかる気がする。それはそれで一つの選択だろうが、何だか寂しい。
だって、変わっていくんだもの。老いて口周りの筋肉が衰えたからクチャクチャ音が出るのかも知れない。自然の変化は怒るべきことではない。自分だってだんだんと老化していく。
おそらく私は、夫が(自分も)衰え、変わっていく姿を見ているのが不安なのだろう。夫が私に対して言葉を惜しむことも、気遣いに欠くことも老化の表れと思い、怖かったのだと思う。あんなに健康で明晰だったのに、いつからか体調不調の話ばかりするようになり、いろいろなモノや事を忘れることが多くなり、現在進行形で少しずつ老いている現実を日々感じる。そんな現実を受け入れることは、やっぱりしんどい。
でも、受け入れるしかないし、受け入れたいと思う。難しいけど。
四苦=生老病死とは、よく言ったものだ。老い病み死ぬ、そんな避けられない苦しみを考えると不安で、その不安を抱えて生きるのが一番辛い。そこに相手に対する怒りが加わったら、それはもう「苦」でしかない。
変化、老化をどうやったら受け入れられるのだろう?考えてみた
「まあ、しゃーないじゃん。そういうものだもの」と諦める。諦観も大事。
考えても仕方のない事は考えない、というのもアリ。
相手に怒りが沸いたら(これが自分的には一番きつい)、やはり利他の気持ちを持つことが救いになるのかな。アドラーも、ダライ・ラマも、西田幾多郎も「利他」こそが幸福になる道、と説いている。相手の幸せを願う心を持つ。言うは簡単、行うは、、、コンニャロメと思っている相手の幸せを願うなんていう芸当は私にはできない。どうしたらいいんだろう、途方に暮れる。
利他の心を育てる具体的な行動はあるのだろうか。
前に読んだ何かに(忘れてしまった)メンタルを鍛えるには自分を整えよ、みたいなことが書いてあり、ナルホドと思って心がけていることがある。
例えば、「規則正しい生活、ポジティブな行動、すぐやる、注意深く正確な行動、整理整頓」等、つまり基本的な生活態度をきちんとすること(;^ω^)。できてないことも多々あり。
自分を整える習慣がつけば、グズグズに崩れがちなマインドを何とか保てるのではないか、という算段だ。この項目の中に「他者を思いやる」も加えてみようか。
そうやって余裕が持てれば、前向きに考えられるようになるかもしれないし。試行錯誤していこう。
心穏やかに生きていきたいものです。