みちべぇの道

道だとか橋だとかが好きで、走ったり歩いたり道に迷ったり

「夏物語」を読んでつらつらと思う

夏なので夏っぽい本を読みたいと、図書館で川上未映子の「夏物語」を借りて読んだ。

 

 

川上未映子の著作は、過去に間を置いて2~3冊読んだことがあるが、「この人の作品は続けて読めないな」と思った。なんというか、面白いのだけれど副作用が強すぎる。ヒリヒリした痛みに取り込まれて一緒に落ちていくような感じになるのは、私が影響を受けやすいだけなのかも知れないが、この人を読むときは注意が必要と思っている。

今は、私も年相応に鈍くなり、若さゆえのヒリヒリ感は遠い過去の記憶、みたいになっているから、もうそんなんに気持ちを揺さぶらることもなかろうと、手に取ってみた。

 

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「夏物語」は、主人公の夏目夏子が、AID(精子提供による人口受精)によって子供を生みたいと願う話。

夏子の父親は、彼女が小学一年生のある日借金を残したまま行方不明になる。借金取りに追われ夜逃げした母と夏子と9歳違いの姉は、母方の祖母の元に身を寄せ、家族4人は貧しいながらも仲良く暮らしていた。

貧乏ゆえに学校でいじめられたこともあったが、母も祖母も姉も、夏子を慈しみ愛していた。夏子の記憶の中の家族はいつも笑顔で暖かかった。しかし、働きずめの母はやがて病気になって死に、祖母も続いて亡くなる。

現在、独り暮らしの夏子は、いつの頃からか、子どもを生みたい、自分の子どもに会いたいと思うようになった。しかしパートナーはいない。そして夏子は精神的な面から生殖行為ができない。そんなときAIDを知る。

 

この物語には、AIDで生まれた善百合子という女性が登場する。

善百合子の両親は仲が悪く、物心ついたときから緊張を強いられるような環境で大きくなった。そして百合子は、まだほんの子供の頃から育ての父に性的虐待を受けていた。大人になってから自分の出自を知り、彼女の孤独な闇は更に深くなっていく。

子どもを生む親の身勝手さを淡々と語る百合子の言葉が、いちいち突き刺さる。

 

百合子は夏子に問いかける

「あなたは、どうしてそんなに子どもを生みたいの?」

夏子は

「わからない」「ただ――会いたいと思う気持ちがあったんやと思う」と返す。

「みんな、おんなじことを言う」善百合子は言った。「AIDの親だけじゃなくて、親はみんなおなじことを言うの。赤ちゃんは可愛いから。育ててみたかったから、自分の子どもに合ってみたかったから。女としての体を使いきりたかったから。好きな相手の遺伝子を残したかったから。あとは、淋しいからだとか、老後をみてほしいからとかなんていうのもあるね。ぜんぶ根っこは同じだもの。」

 

自分はどうだっただろうか。私は、自分の子どもを生むのも育てるのも自信がなかったから、このことについては随分と考え、夫と話した。結局子供を生まないという決定的な理由が浮かばず、「動物は繁殖するもの。人間も同じ」と言われ納得した気になった。自分の子どもと思うと不安ではあるけれど、半分は夫の遺伝子を受け継いでいるのだから、なんとかなるかも、夫が望むのであれば、というあやふやな決意とも言えない思いがあった。

 

百合子は続ける

「ねえ、子どもを生む人はさ、みんなほんとに自分のことしか考えないの。生まれてくる子どものことを考えないの。子どものことを考えて、子どもを生んだ親なんて、この世界に一人もいないんだよ。ねえ、すごいことだと思わない?それでたいていの親は、自分の子どもだけは苦しい思いをさせないように、どんな不幸からも逃れるように願うわけでしょう。でも、自分の子どもがぜったいに苦しまずにすむ唯一の方法っていうのは、その子を存在させないことなんじゃないの。生まれないでいさせてあげることだったんじゃないの」

 

ああ、そうだよなぁ、と思う。

百合子のような目にあったわけではないが、私は百合子に深く共感してしまった。

夏子は「それは――生まれてみないと、わからないことも」と呟く。

しかし、百合子は「その賭けはいったい誰のための賭けなの?」と言う。

賭け?

「自分が登場させた子どもも自分とおなじかそれ以上には恵まれて、幸せを感じて、そして生まれてきてよかったって思える人間になるだろうってことに賭けているように見える。人生には良いことも苦しいこともあるって言いながら、本当はみんな、幸せの方が多いと思っているの。だから賭けることができるの。いつかみんな死ぬにしても、でも人生には意味があって、苦しみにも意味があって、そこにはかけがえのない喜びがあって、自分がそれを信じるように自分の子どももそう信じるだろうってことを、本当は疑ってもいないんだよ。(中略)ただ信じたいことをみんな信じているだけ。」

 

グイグイ来る。

そうだよ、だってそう思わなければ子どもなんて生めない。

確かに賭けだ。生まれながらに強い人も脆い人もいて、育つ環境が過酷な子どももいて、親は子どもを健やかに育てる責任があるが、どうにもならないこともある。

 

娘が生まれたときのことを思い出す。

生まれた娘は他のどの赤ん坊より可愛く、小さく、「目の中に入れても痛くない」という逆上した慣用句も違和感なく受け入れられるくらい大切な存在に思えた。今も、もちろん大切だが、娘は生まれたことを喜んでいるだろうか、と考えることもある。それは親として傲慢な考えであることはわかっている。彼女は一人の大人なんだから、幸せか不幸かは自分で決めることだ。だけど、、

私自信が生まれてよかったかと問われれば、どうなんだろう。

 

動物も人も繁殖するもの、という「常識」を受け入れ、生むか生まないか悩むなんて贅沢な考えだという思いもあり、深く考えることをやめてしまった。

今、百合子の気持ちはこんなにもわかるのに、当時は夫や周り人たちの意向や意見を考えて肝心の「子どものため」を考えなかった。私は浅はかだ。

 

浅はかなことは間違いないが、でも、今更だ。

今更、自分や子どもの生を考えてみても、もう、なかったことにはできない。

まぁ、頑張って生きてね、と無責任に思うしかない。自分も生まれてよかったと思うような生き方をすればいい。今更こじらせても意味はない。

 

姉や友だちには孫がいて、写真を見せてくれるのだが、その愛らしい顔を見てほんのりとし、「いいな、私も、もし孫が生まれたら余裕を持って愛情を注げるかも」と思っていた。それもまた自分が何かに愛情を注ぎたいだけなのだと気づく。

なんか、相手の立場に立ってと考えるとか、全然できてないね自分。

 

他の人はどうなんだろう。自分の生、子どもの生についてどんな風に考えているのだろう。

 

百合子は最後の方で言う

「生まれたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけないから」

自分の生を否定することでしか生きられない、逆説のようで切実な思い。

夏子は

べつのしかたで、とわたしは思った。私が知っている言葉ではなくて、わたしが伸ばすことのできるこの腕ではなくて、もっとべつの、べつのしかたで、なにかべつのしかたで――彼女を抱きしめたかった。

うん、ほんとうに、百合子の傷を広げることなく、ふわりと癒してあげることができたら、と私も思った。

 

 

・・・また、まとまらず。