「雨催い」という言葉が、ずっと頭の中にあった
何日か前、秋から冬に変わっていくある日
灰色の雲が空一面に広がり、空気は雨の気配で満ちている中を まだ泣かないでね、と空にお願いして走った。
こんな空模様を 雨催いというのかな、と思いながら。
雨催い、という言葉と 薄暗く沈んだ空が
その時の寄る辺ない気持ちに なぜかしっくりおさまって
以来、頭のすみっこに居ついている「あまもよい」という響き
先日、dokidokidoctorさんのブログで
雪催(ゆきもよい)、階下でドアの閉まる音
という俳句を拝見し
こちらは「雪催い」か。
気持ちが惹かれた。
情景を思い浮かべる
私は窓を少し開け、去っていく人には目を向けず
雪雲が低く覆っている凍った空を見上げて
やがて舞い落ちて来るであろう雪の
最初のひとひらを待っている
白い息が空にとけていく
ほぼ妄想、そして自己陶酔 (;^ω^)
そんな勝手な解釈を、不躾にもコメント欄に書いてみた。すると
dokidokidoctorさんのお返事は
そのドアの音は、限りなく小さく、ピアニッシモでした。
ふーむ、ナルホド。
dokidokidoctorは、そのピアニッシモな音を聞いていた、全身で。
聞こえるか聞こえないかの微かな音は、どんなふうに響いたのだろうか。
俳句を作る人の感性はやっぱりすごいや、と思った。
私は、俳句については全く詳しくないので、たぶんとんちんかんなことを考えているのだろうが、
俳句を詠むには、2種類の取り組み方があって
①情景や気持ちを伝えるために言葉を選ぶ
②一つの言葉を吟味して世界を広げていく
そして、dokidokidoctorさんは②のタイプかな、と勝手に思っていた。
右脳よりも、左脳を若干多く使っているような。
私も左脳で文を書く人間なので、言葉の力を信じているように思えるdokidokidoctorさんの句にはとても親近感と好感を持っている。ただ、私の文章はあざといがdokidokidoctorさんの俳句は知的であるところは、人間性の違いか(比べること自体が失礼)
しかし、コメントのお返事を読んで、言葉ありきではなくやっぱり感性の人だと思った。
そりゃそうよね、右脳も左脳も両方使わなきゃ良い句はできない。だって五感で感じて言葉で伝えるんだもの。
句の内容が現実のことでも、過去にあった出来事でも、創造だとしても、作者はその風景の中に確かにいて、風を感じ、空を見上げ、花の香に包まれている。
だから、砂漠のシリウスも、ブエノスアイレスの紫雲木の花も、情景が目に浮かび、静かな気持ちになったり、切なくなったり、くすりと笑ってみたりする。
天狼(てんろう)に導かれ 砂漠を四駆(よんく)
ジャカランダの花に良き風の都
なんと豊かなことでしょう。
思うがまま述べたが、書きながら最初の「雪催い」の句
雪催(ゆきもよい)、階下でドアの閉まる音
の解釈を間違えたかも と思ったり。
風邪気味で少し熱があり、家人からは「寝ていていいよ、鍵をかけて出かけるから」と言われて二階の部屋で臥せている。
家人は、うるさくないように玄関のドアをそっと閉めて出かけるが、私はその音を聞いている。
今朝は随分と冷え込み、窓の外は雪が降りそうな天気だけど、あの人は傘を持って行っただろうかと少し心配する。
実はそんな暖かな句だったのかもと、コメントにいただいたヒントをもう一度読んで思った(^◇^;)
いろいろな解釈があっていいのかな?
・・・やっぱりトンチンカンを言っている気がする (;^_^A
dokidokidoctorさん、好き勝手を言いましてすみません。いつも楽しませていただき、ありがとうございます😊