みちべぇの道

道だとか橋だとかが好きで、走ったり歩いたり道に迷ったり

悪人も救われる

新聞の書籍広告で目にした本

 

 

和田秀樹「60歳からはやりたい放題」

『好きなことだけすればいい』

おお、これは私の還暦の方針を後押ししてくれるような本ではないか

買っちゃおうかな、買っちゃえ

衝動買いした

 

テーブルに置いたこの本を見た夫は

「あなた、もうすでにやりたい放題やってるでしょう」

うっ(゜-゜) 言われると思った

いや、私が良いと考えていることが立証できれば自信を持って行動できるかな、なんて、へへへ(言葉を濁す)

夫「自分がやってきたことを後悔したり罪悪感持ってるわけじゃないんでしょう」

うーん、後悔はしてないけど罪悪感は持ってたりする。

だから、子どもたちの夢を見て泣くんだよ。

 

子どもたちの夢・・・

夢に出てくる子どもは、娘だったり息子だったり

どちらだとしても まだ小さくて

「おかーしゃん抱っこして」と甘えてくるのだが

そのときの私は歩けないくらい疲れていて

抱きあげて歩こうとするものの、立ち上がれない

「ごめんね、お母さん抱っこしてあげられない」

とても悲しくて、自分が不甲斐なくて

泣きながら目を覚ます

というもの

実際に起こったことではないのに、時折、同じような夢を見る

(仕事に追われて保育園にお迎えに行くのを忘れていて、気が付いたら深夜、という夢もたびたび見る)

 

娘は2歳から、息子は1歳から保育園のお世話になっていた。

もちろん、そのこと自体に後悔も罪悪感もない。

「仕事があるから子どもたちといる時間が大切だと思うし

 子どもたちがいるから仕事を頑張れる」

と言えば聞こえは良いが、実際は

子どもたちと常に向かい合い、自分の力だけで子育てする自信がなかったし

仕事のストレスから目を背けるために子供たちを利用していたのもある。

保育園の力を借りて仕事を続けたことは

私としては正しい選択であったと思っているのだが

未だにこんな夢を見るのは、子供に負担をかけたという罪悪感があるのだろうね。

息子が朝の保育園で別れ際に「おかーしゃん、ぼくさみしい」と言ったたことや

娘に「おかあさん、こわいからおこらないで」と手紙をもらったときの罪悪感が

私の奥深くで蓄積して発行しているような気がする。

しょうがないか、私がお母さんなんだもの。

 

どんよりと考えていると、夫が

「大丈夫、悪人は救われるんだよ」と明るく言ってきた。

悪人はというより、私はできそこないだよな・・・

って、何?急に、歎異抄か?

 

夫は、つい昨年あたりまでは筋金入りの無神論者だったのだが

何の心境の変化か

これからも私と暮らすには、人生悟る必要があると考えたのか

聖書や仏教の入門書を読むようになった

「悪人は救われる」は、たぶん親鸞歎異抄の中の悪人正機説

「善人でさえ浄土に行けるのだから、悪人ならなおさらですよ」みたいに訳されているが、本来の意味を私は理解していない。

「悪人」とは救いを求めている人のことだろうか

夫に問うと

「誰でも救われるんだよ」

非常に大雑把な答えが返ってきた

 

まあ、救われても救われなくても

浄土に行っても地獄に行ってもいいんだけれど

夫がなぐさめてくれたのだとしたら、それは有難いことだと感謝しておこう。

 

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昨日は海まで走った

 

海は光り、雲は普段見ないような形のものが多かった

 

UFOっぽいのや

 

羽を広げて飛ぶ大きな鳥(見えない?)

 

雲は、すぐに形が変わるので写真を撮るのが難しいですね。

 

海は広く、空も広く、雲は自由に姿を変えていく

 

面白かった