岩下悠子の「漣(さざなみ)の王国」を読みました。
読後は、いろんな思いが頭の中をぐるぐる回って
まだ、まとめきれていないのですが
物語のキーワードの1つである「反復」という言葉の意味するところが
なんだか沁みたので、そこのところを書いておこうと思います。
物語の内容を説明すると冗長になるので省くとして
唐突に、
わたし(朝子)の友人 ライラが、同じ寮に住む水泳部の瑛子について語った言葉を引用してみよう
「(瑛子は)同じ寮に住んでいる学生です。とっても立派な人です。わたしが明け方の祈りを終える頃、彼女は水泳部の練習のために出発します」
「わたしには分かります。彼女は自分にジハードを課しているのだと」
「ジハードは本来、最大の努力という意味です。他者と戦うことではなく、自分自身と戦うこと。自分を正しく作り上げる行為こそが、真のジハードなのです」
瑛子は日々熱心に練習する人で
早朝も夕方も、誰もいないプールを何度も何度も往復する
求道者のように泳ぐ人
ライラは、敬虔なイスラム教徒
毎日、祈りをささげるライラだからこそ、瑛子のジハードがわかるのだろうか。
「泳ぐ」「祈る」はどちらも反復で、反復することがその人を作り上げる、という言葉にとても共感、というか、そうだったらいいな、と思った。
朝子は、ライラの言葉を聞いて、小さな願いを持つ
「わたしにも何かないだろうか」
さっき垣間見たライラの祈祷のごとく、日々無心に、懸命に打ち込める習慣が、自分にも何かないものだろうか。信仰でなくてもいいのだ。崇高な行為でなくてもいい。ただ、どれほど内面が荒廃している時も、どれほど自分が無価値に思える時も、精神の状態とは一切関係なしに、ひたすら重ね続けていける強靭な日課。そういうものが何か欲しい。朝に夕にひたすら反復することで、魂を整え、わたしを少しだけましなものに変えていく、ささやかな修練(トレーニング)。わたしだけのジハード。
走るのもブログを書くことも反復だよね。
じゃあ、私はジハードを持っている?
へなちょこなランナーもどきではあるけれど、走ることは「強靭な日課」なのだと思う(何度変換しても「狂人な日課」って出るのはなぜ?)
内面が荒廃しているときは、内面が荒廃している走り方になってしまうけど
走ることをしていなければ、今とは違う性格になっていた気がする(もっと陰鬱になってた、今でもじゅうぶん陰鬱だけどちょっとは まし)
ブログを書くという反復も
何度も書くことで、アタマの体幹を鍛えて(なんじゃそりゃ)安定した自分になっていけたらいいな、と思う。
少しでもましなものに、なっていきたいよ、ほんと。
この小説は、朝子もライラも瑛子もその他の登場人物も、内面にヒリヒリしたものを持っていて、その痛みが何とも切ないのです。切ないけど幸せなんだろうなぁ。
反復って大事だな
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ということで、今日も同じ動作の反復、ひたすら歩いてきました
本番と同じリュックを背負い、同じシューズで
秦野の戸川公園まで往復。
桜の花がほろほろと散る中を歩きました
セグロセキレイがとても良い声でさえずってた
戸川公園に到着と同時に雨がぽつぽつと
桂の木の丸い若葉が生き生きしてた
チューリップっていろんな色があるのね
雨が降っているので座ってお昼を食べる気にならず
歩きながらおにぎりを食べ食べ帰ってきました(お行儀悪し)
朝5時から夕方5時まで、12時間で60キロ歩いた
が、今日は余裕なかったなぁ
50キロくらいまでは順調だったが、その後貧血みたいに冷や汗が出て
パンを食べたら少し持ち直したけど、いや~な感じがしました。
休憩とか補給食の摂り方とか、もう少し考えなきゃ
難しい (;一_一)