今回、「歎異抄」を読もうと本を探していて、びっくりするくらいたくさんの翻訳本や解説本があることを知った。
未だ人気衰えず、多くの人に読まれているのですね。
Amazonのレビューもほとんどが高評価。でもコメントは「解りやすかった」「この本を死ぬまで持っていたい」「この本と出会えてよかった」と具体的でない。
今の時代、「歎異抄」のどこが人々の心に沁みたのだろう。
私は本を読んで、「死ぬほど苦しい目に会った人に『歎異抄』は効くのだろうな」と思ったが、己の心に いまいちガンガン響いて来ない。
響かないのは苦労が足りないから? 私だって、結構生きるの辛いのになぁ。
ああ、「歎異抄」を読んだ人を片っ端からつかまえて聞きたい
「ねぇ、感動した? 心に刺さった? どこが良かった?」って。
そんな折、新聞のコラムが「歎異抄」を取り上げていた。
ふむふむと読んで、でもあまりピンと来ず、新聞は古紙回収に出してしまった。(とっておけばよかった)
インターネットのデジタル版に冒頭の文章が紹介されていた。
できない自分を認めたら
ほめられたい、人より優れていると認められたい――。そんな生き方に行き詰まった時、人生の指南書のように手に取られてきた仏教書がある。浄土真宗の宗祖、親鸞(しんらん)(1173~1262)の教えを伝える「歎異抄(たんにしょう)」。仏教の枠を超えて、人びとの心をとらえ続ける魅力はどこにあるのだろう。
続きは有料(;^ω^)
記事全体の内容はあまり記憶に残っていないが、
みんな、生きずらい自分を抱えて生きているんだな。と思ったことは覚えている。
その気持ち、よくわかる。世の中には不条理があふれているが、私の一番の不条理は、自分が自分であることだ(;^ω^)
自己肯定感とか承認欲求とか、もうそんなのどうでもいいじゃん と思いながらも気にしてしまう。変えたくても変えられない性質。
そこで「歎異抄」か、うーむ
つらつら考えて、ある夜「あっ、わかったかも」と思った。
「私訳・歎異抄」第二条で「浄土に行ってもいかなくてもどっちでもいい」と言った親鸞は、続けて
そう思うのは、このわたしが念仏以外のどんな修行によっても救われない自分であることを、つね日ごろ身にしみて感じているからです。
自分のを善くしたいと努力するのは大切なことだと思うけど、根っこにある面倒な気質を変えて楽になることは、なかなかできない。本を読んでも内観しても坐禅をしても、自分を変えることはできない。ほんとにできない。哀しいくらいできない。
そんなの とっくの昔にわかっていたのよね
自分は自分を救えないと、親鸞は700年以上も前に言ってるのだもの。
そこで他力の登場
他力とは、他人の力ではなく「阿弥陀仏の願い」
人は、人の悩みを受け入れるほど強いものではないし、助けるのは無理がある。
なので、自分では抱えきれなくなった重い荷物は、阿弥陀さんに預けよう。
実際に荷物が重すぎても、持つ人が虚弱でも、どちらも受け入れてくれる。
むしろ、悪人(=ダメな奴)を優先して救ってくれる。
阿弥陀仏は実在しているのかとか? たぶん、そんなことはどうでもいいのだ。
そもそも、人の心は目に見えないし よくわからないものだから、形のない重苦しいものを 形の定かでない大きな力に預ける、、バーチャルでいいと思う。
大切なのは信じて願うことらしい。
さあ、名前を呼ぼう
たすけて、アンパンマーーン!(違う)
・・・妄想するに
「もうダメだ」と助けを求めたとき、慈悲の塊のような優しい雰囲気をまとった阿弥陀さんが、ふんわりとハグしてくれて「辛かったね、もう大丈夫」と背中をトントンしてくれる
そんな場面を想像するだけで、気持ちがちょっと楽になる気がする。
本気で信じればもっと楽になるのだろう。
しかし、信じる者は救われるのは解るが
正直、阿弥陀仏を心から信じることは簡単でない。
でも、「思う」とか「考える」ことで肩の力が抜けたり少し楽しくなるのなら、時々、思ってみようかな。
-----
長々と書いたが、随分偏った解釈だろうな
「歎異抄」は難しい。
解釈した本を読んでも難しい。(理解力の問題)
でも、なんだかよくわからないけど暖かいものを感じる。もっと知りたいと思う。
もう一度読んでみよう。