みちべぇの道

道だとか橋だとかが好きで、走ったり歩いたり道に迷ったり

浅読み「歎異抄」①

20年前の苦い記憶

インターネットが普及してきた頃の話。

浄土真宗の某お寺のホームページにお邪魔し、そこに書かれた「念仏すれば救われる」という教えが理解できず、ホームページのメッセージ欄に素朴な質問を書き込んで、その寺の住職に嫌がられた(;^ω^)。

質問の内容は

「どうして念仏を称えるだけで救われるのですか?努力はしなくて良いということ?」

住職さんの返答は

「あんたは人が苦しんで念仏している姿を見て、キョトンとしているんだろうね」

と、辛辣なもので、私はその言葉通りキョトンとするしかなかったが、

自分が人の痛みを理解できない苦労知らずな未熟者であることは思い知らされた。

私もいずれ「念仏すれば救われる」という言葉の意味も、人の痛みも解るようになるのか、と思いつつ時は流れ、、、

 

鎌倉時代の「歎異抄

先日、ブログでちらっと「歎異抄」に触れたところコメントをいただき、これも何かの縁かも知れないと読んでみたのが、まず入門&解説書。

夫に借りた「歎異抄にであう」。NHK「こころの時代」のテキストですね。

 

 

浄土真宗を開いた親鸞の弟子が、師匠 親鸞の言葉を忠実に書いた「歎異抄」が、宗教学者の阿満さんによりとても解りやすく解説されている。

 

歎異抄」に書かれていることは

阿弥陀仏の名を称えることですべての人は浄土へ行ける

と、実にシンプル。でも意味がよくわからない

言葉の解説をすると

阿弥陀仏の名=南無阿弥陀仏=念仏

②浄土=天国(heaven)ではなく、輪廻転生せずに仏の元に生まれること

つまり、「南無阿弥陀仏」と称えれば、全ての人は死後に人の世に生まれ変わることなく浄土に行くことができる、ということらしい。

 

どうしてそんなことができるの?

弥陀の本願によるものである

昔、法蔵という人が、「苦しむ人々を救いたい」と願い仏になる修行をしたと。

そのとき

もし私が仏になったとき、十万世界のあらゆる人々が、まことの心をこめて信じ願い、私の国(浄土)に生まれたいと欲することが、少なくとも十回に及べば、必ず浄土に生まれるようにしたい。そうでなければ私は仏にはなりません。

と誓いを立てた、と「無量寿経」というお経に書かれている。

この法蔵が後の阿弥陀仏

法蔵さんがそう誓いを立てて阿弥陀仏になったんだから、誓いは現実のものになる、のだと。

 

信じるかどうかは別として

そこじゃない、と思った。

輪廻転生?浄土?誰も見たことがないしあまりにも不確定な世界だ。そこに救いを求めるのはどうなんだろう?

今が苦しいんだよ!今、生きるのが辛いんだよ!

と叫ぶ人は、その当時いなかったのか。

 

どうも釈然としないので、当時の時代背景を調べてみると

親鸞のいた鎌倉時代、平均寿命は24歳!( ゚Д゚)

戦があり、度重なる飢饉があり、大地震があり、疫病があり、人はあっという間に死んでしまう。

人々は貧しく、娯楽どころか文字を読めない人も多く、働いても食べるものがなく…

そんな状況では生きている間に救われる余地など、ほとんどない。

死後にお浄土に行きそこで慈悲に包まれて安らかに暮らせる、と信じるしか希望はなかった。

ひどい話だが、そういう時代だったのね。

現代の価値観で測ってはダメなんだな、と思う。

 

非常に長くなりそうなので、ここで切ります

 

(つづく)