物心ついた時から、我が家は祖母を中心に、ある仏教系新興宗教を信仰していた。
小さい時は、日曜ごとに「教会」「道場」と呼ばれる宗教施設に連れていかれ、同年代の子どもと遊んだり、イベントに参加したり。それが当たり前の生活と思っていた。
家にはよく近所に住む信者の人が数名集まり、お茶を飲みながら悩みごとなどを話し、リーダー的な存在だった祖母がそれに答えていた。「玄関先で転んで怪我をしてしまった」「それは仏さまのお悟ではないか」のような会話を聞くことが多かった。
お悟(おさとり)とは、問題に気付かせるために仏さまが当事者に災難を与える、といった感じかな(解りにくい。「バチが当たる」に近いかも)。
奥さんが「転んで怪我」をしたのは「旦那様を大切にしていないから」という理論が展開されていたように思う。そのことに気付き自分の行動を見直せよ、ということらしい。
ふーん、なるほどそうなんだ、と納得するほど当時の私は素直ではなかった(今も素直じゃないけど)。逆に「そんなバカな」と反発し、思春期の頃にはそのような教えを押し付ける宗教を毛嫌いするようになった。
だが、「お悟=この災難には何か意味がある」という考えは、どういうわけか脳の片隅に染みつき、その後の私のメンドクサイ性格を形作る元になったように思う。
また、祖母はよく「人の役に立つように」と言い、自らそれを実践していた。(押しかけボランティアとか)
私はあまり人といるのが得意ではなく、猫といるほうが幸せを感じるような子供だったが、祖母の「人の役に」は、その後成長した私の価値観を揺さぶり、惑わせるのだった。(人と接するのが苦手なのに整体師になろうと学校に行ったり、、気持ちと行動があってないことがままある。気持ちのどこかに「人の役に立ちたい」の思いがあるからかも)
これもまた刷り込みだろうか、大人になってから仏教に興味を持ち本を読んだ。
修行して悟りを得る、努力すれば道は開けるといったところも解りやすかった。
「自業自得」は仏教用語で、「あなたの身に起きたことはあなたが原因である」という。これは祖母が言っていた「お悟」と似たような意味なのかもしれないと思った。
その後、ダライ・ラマの本を読み心打たれた。徹底した非暴力、慈悲、利他心、、なんてカッコイイおじさんだろう(失礼)とファンになり、来日したときは講演を聞きに行った。(今でも一番好きな人はダライ・ラマです)
祖母の「人の役に」は「慈悲」と関係している。相手の気持ちを思い行動することでしか自分の心は救われないんだよ、という解釈に近いかな。難しい。これは歳をとってほんの少しだが解ってきたような気がする。
さて、仏教にもいろいろあるが、浄土宗・浄土真宗はイマイチよくわからない。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土へ行けるとは、随分と都合の良い考えだとしか思えない(ひねくれ者)。
先日、京都へ行ったとき、法然院というお寺に立ち寄った。
法然上人ゆかりの浄土宗のお寺
観光客はそこそこいたが、静かな、雰囲気の良いお寺だった。
法然さんは、「良い行いをしても罪をおかしても、念仏を唱えれば往生できる」と説く。阿弥陀如来の他力が人々を救ってくれるのだと。
背景には「凡夫」があるらしい。
教養があり生活の苦労もない者は修行や瞑想をして悟りを得られるかもしれない。だが、世の中には貧しい者も多い。生きるために罪を犯すこともあるだろう。そのような凡夫も含めすべての人が救われなければならない。
大丈夫。阿弥陀さんが助けてくれる。
仏陀が説いた仏教とは違うように思えるが、ここに法然さんの「本気」があるのだな、と感じた。
人を救うのが仏教。
私は凡夫だがまだ少し余裕がある気もする。なので本を読んだりお寺で館長さんの説法を聞いたり坐禅をしたり、もがいて何かを知ろうとできる。それは幸せなことかも知れない、と思った。
上記は私の解釈で、かなり外しているかもしれません(汗)