みちべぇの道

道だとか橋だとかが好きで、走ったり歩いたり道に迷ったり

音楽の解釈

クラシック音楽には聴き方があるの? という話です

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先々週、朝日新聞の土曜版で、角野隼人というピアニストが紹介されていた。昨年のショパンコンクールで3次予選まで行った26歳。「かてぃん」の名でYouTubeもやっているというので覗いてみた。

 

楽し気にピアノを弾く人だ。

ピアノの一音一音がクリアでよく響く。

滑らかな音のつながり

音楽とは流れるものなのね、と感じた

 

私は、クラシック音楽には全然詳しくないが、素人なりに「心地よい音楽」と感じた。

もう少しこの人のことを知りたくなり、検索すると

「角野隼人の演奏だけは受け付けない」というnoteを見つけた

 

note.com

 

穏やかじゃないな、と思いながら読み進めていくと、とても興味深い内容だった。

 

著者は、ショパンコンクールでこの人の演奏を聞き、強烈な拒否反応を起こした。と

 

3次予選での幻想ポロネーズの演奏中、「何かものすごく大切なものを冒涜されている気がする」「この演奏を許してはいけない」と直感的に感じました。

 

何故、そう感じたのか。演奏者はショパンを「解釈」していないからだという。

 

コンクールとは「参加者各自の多様な楽曲解釈の成果を見せる催し」だとみなせるでしょう。過去の故人である作曲家、ショパンならショパンに向き合い、「こんな人だったのではないか」「こう考えていたのではないか」などの解釈を発表するのがコンテスタントの使命だと、多くのクラシック愛好者は信じて疑っていないと思います。

 

しかし

 

角野さんの演奏はショパンの作品をショパンが生きた当時のように「最新曲」として演奏しているように思えてなりません。それなら過去との対話が存在しないのは当たり前です。「解釈」や「ショパン像」なんてものは存在しない、曲がまっさらだった時代の演奏をしているのではないでしょうか。

 

他にも同じように感じている人はいるようだ。

私は全然そんな風に感じなかったよ。

 

うーん

クラッシック音楽は、演奏者や指揮者がその曲を広い意味で「解釈」して伝え、聴衆も「解釈」を感じながら聴いている、ということ? 考えたこともなかった(;^ω^)

みんな、そんな高度なことしてるの?

 

演奏者である角野隼人は、インタビューで、こう言っている。

ショパンを感じたまま、嘘がないように、正直に」

 

確かに「解釈」は、あくまでもその人にとっての解釈であり、それが正解かどうかは誰にも解らない。もし的外れな解釈だとしたら、それってかえって作曲者に失礼じゃないの?

正解じゃなくても、聴く人の耳に「自分はこう思う」が届けば良いのかな?

 

解釈については考えたことはないが、ベートーヴェンの『月光』を、ケンプじゃなくてゼルキンで聴きたい、と思うことはある。たまたま家に両ピアニストのCDがあったので(私が買ったものと夫が買ったもの)聞き比べたことがある。ゆったり、じっくり聴かせるケンプと、スピード感のある超絶技巧のゼルキン(私の個人的感じ方ね)は、同じ曲でも違う印象を与える。これが両者の『月光』に対する「解釈」なのだろうか? 単に演奏者の技法や好みの違いだと思っていたのは、実は解釈の違いだったのか。

 

辻井伸行のピアノを聴いて「この人は優しくて心の綺麗な人だな」と感じるのは、辻井さんがそのような人となり なのではなく、彼の曲に対する解釈がそう感じさせるのか?両方か?・・・混乱してきた。

 

 

つらつらと考えていて、ふと思い至った。

 

そっか、クラシック音楽ってカバー曲なんだ。

ショパンというミュージシャンの作った曲を、後世の人がカバーして演奏している。

 

今で言えば、中島みゆきの「糸」をミスターチルドレンの桜井さんがカバーする、みたいな。

現代は、映像も音も残っていて、中島みゆきの歌っている様子を見ることもでき、カバーするのも容易とは言えないにしてもやりやすいのだろうが、ショパンは楽譜しか残ってないから、再現するのは大変であろう。

 

人が作った曲だから、そこに何かしらの「思い」があるのは当然で、その「思い」を無視したカバー曲があったとすれば、ファンが怒るのも当然だね。なるほどなるほど(わかったつもりになる)

 

いやいや、それにしても200年以上も前にワルシャワという遠い地で生まれたショパンという人の、「人となり」や「当時の社会情勢」や「家族の状況」等々まで知らなければ、ショパンの音楽を理解できない、というのであれば、それはあまりにもハードルが高過ぎる。クラシック愛好家の方々はそこまで勉強しているのだろうか?勉強しているんだろうな。

 

作曲者が残した楽譜を見て感じたことを、その「背景」をあまり気にすることなく、素直に正直に表現する角野隼人の姿勢は、それほど否定されるものでもない気がする。彼の演奏が若い人には受け入れられているのは、そんなところにもあるのかもしれない。(YouTubeライブ配信を見ると、チャット欄に花やらハートやらが高速で飛び交う、オバサンは目が回る(笑))

 

えーと、、(ほら、まとまらない)

上のnoteの著者は

「どちらも間違いではない」と言っています。

楽家の背景を学んで音楽を楽しむもよし

難しく考えないで聴いた音楽を楽しむもよし

 

私は「学んで」聴くのではなく、音楽を聴いて、その作曲家が大好きになれば自ずとその人のことを知ろうとするのかな、と思います。(ここは「知らんけど」かな)

そもそも難しく考えるアタマがない(笑)