先週、町田市にある「あとりえ・う」に行ってきました。
「あとりえ・う」は、山の版画家、畦地梅太郎氏のアトリエを開放して、作品を観たり購入したりできる、こじんまりとした空間です。
暑い中、電車で行きましたが、ネットでも販売しているみたい。
はがきサイズの「鳥のねぐら」を買いました
缶バッジも
鳥は、雷鳥かしら?
可愛い 💛
おしまい
にしようと思ったけど、
ついでに、昨日ちょっとだけ触れた本の話をしようかと。
忘れないうちにね。
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「増えるものたちの進化生物学」は
人間に関する本
人はなぜ生きているか、なぜ死にたくないのか、なぜ他人が気になるのか
てな根源的な問いに対して、市橋伯一さんが生物学の観点から説明している。
えっと、まず、生物とは増えて遺伝するものであるという大前提がありまして、
というか、増えて遺伝するものを生物と定義するのかな
そして、生物には大まかに分けて2種類の増え方がある。
①短期間に大量に増えてたくさん死んでしまう微生物などの「多産多死」生物
②時間をかけて増えて死ににくい哺乳類など「少産少死」生物
ヒトは②少産少死の極にいる生き物です。
少なく生んで長持ちできるように、人の体は大きく丈夫で構造も複雑に進化してきた。
成長に大きなコストをかけるために、命が大事になり、死ぬことに大きな抵抗をもつようになったとさ。
子どもは大人より死にやすいので守る必要があり、
「守りたい」という愛情が生まれる。
全ては、自分たち(人)が生き残り、かつ増えるための戦略である、と。
んで、人体は構造が複雑になり脳が発達したために、先のことまで考えて不安になったりするわけですね。
また、長い時間生きるので、長い間人と関わることになり
そこに人間関係の悩みが生じる。
人が他人を気にして悩むのは、「少産少死」の生き物だから。
そういうふうにできている。ってことね
そんなこんなの理屈から、『人の生は物理現象である』となるのでしょう。
私たち人間を含むすべての生命は物理現象です。増えて遺伝するものが出現すると自動的に起こる現象です。物質が重力によって下に落ちることに目的や使命がないのと同じように、私たち増えて遺伝するものの存在にも目的や使命はありません。
クールですねぇ (;^ω^)
この考えの好きなところは、
人間も他の生物と平等であると思えること。
人は「神の子」でもなんでもなく(キリスト教徒に怒られる?)進化の過程にある生物の一種だから、謙虚に楽に生きようぜ、なんて思います。
しかし、実際問題 脳が肥大しすぎた人間の一員としては
人はそーゆーもんだからさぁ、しかたないじゃん
人間なんて ららーらららららーら♪
と歌って暮らせるわけでもなく(歌って暮らしたいけど)
目的なく生きるのもちょっと厳しい気もして
まあ、これからもいろいろ考えるんだろうな
人間としての目的や使命は存在しなくても
ワタシ個人としての目的はあってもいいものね
本の最後の方で、市橋さんは興味深いことを言っている
人間が生み出した、脳内の「ミーム」のこと。
ミームとは、人間の脳に広がる考え方やアイディアのことで、これって遺伝する。
文化や芸術が伝わってきたのもミームの働きの一つ。
驚くことは、この文化や芸術は、生物としての人の生存には何の役にも立たないということで、
どんな優れた小説や映画も、人の生存や子孫を残す可能性にはなんの影響も及ぼしていない。むしろそれらに没頭することで飲食を忘れたり、健康に害を及ぼすことがあったりする。
でも、きっと人が生きていくには必要で、ミームをもつことは人の進化なんだと思う。
脳が肥大化しすぎた人間は
生物としての人の在り方と
人としての人の在り方の間で
これからも悩んで、考えていく生き物なんだと思った。
人生は長いんだから
沢山考えるがいいさと
他人事みたいに