一昨日、義母のことを書いたので、今度は実母のことを書こう。
と思ったが、うまくまとまらない。
うーん、とっ散らかった内容になりそうだな。
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母は、、、母はねぇ、歌って踊る人だった (#^.^#)
いや、正確には唄って踊る、かな
唄うのは「江差追分」とか「長持唄」とか、踊るのは「佐渡おけさ」「花笠踊り」など、民謡ですね。
村の公民館の民謡教室に通っていた。母の唄は、声を張るわけではなく、端正にきれいに音楽を発する、生真面目で控えめな性格を表していたように思う。
ほんとうに歌が好きだった。家で家事をしながら、民謡だけでなく歌謡曲も唱歌も口ずさんでいた。母に倣い私たち姉妹もよく歌った。NHKの「みんなのうた」の曲を歌ったり、姉の高校の校歌(二部合唱になっている)をハモったりしていた。
友だちの家に遊びに行くと、友だちのお母さんも兄弟も誰も歌わないので、「普通の家は歌わないんだ」と気付いた。考えてみれば、我が家も母と兄、姉、私以外の家族は歌わない。歌は楽しいのにね。
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私は、小さいとき母から離れられない子供だった。
朝、保育園で母と別れるとき大泣きして母に追いすがり、それは小学校低学年まで続いた。味噌っかすの私は、同じ年齢の子どもといるのが楽しくなく、母といるときだけ安心できたのだと思う。
母は、家の近くの工場で、あるいは保育園で、いろいろと職を変えながらパートをしていた。私は、学校から帰ると母を迎えに行き(たぶん午後3時くらいに仕事が終わったのだと思う)、一緒に夕食の買い物をして家に帰り、一緒におやつを食べた。末っ子の母は同じ末っ子の私と気が合ったのかもしれないが、とにかく私は母にべったりの甘ったれだった。
小学校高学年か中学に入る頃には、私もだんだんと周りの同級生たちについていけるようになり、友達もできた。そして自然と母離れもできたのだと思う。
逆に家が鬱陶しくなった。二言目には「お悟が」「お導きが」という言葉が出てくる宗教色の強い家も嫌いだったし、暴君(と思っていた)父からも離れたかった。
高校を卒業すると同時に家を出、それからは忙しさを理由に実家にはあまり近づかなくなった。
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24歳のとき、私は鬱状態と摂食障害で倒れ、夫が私の母に助けを求めた。(このときは義母の家を出て夫と二人アパートで暮らしていた)
新潟からとんできた母は「信仰しなさい」「ご先祖様を供養しなさい」と言い、しばらく私の様子を見て帰っていった。
母は何をしに来たんだろう?勧誘? 訝しく、迷惑にすら感じた。
娘を生んだとき、私は実家に帰りたくないという理由で里帰り出産を拒み、母が産後の手伝いに来てくれた。この時は母に感謝し、実家も忙しいのに申し訳ないと思った。
産後、病院から退院した翌々日の朝、私はひどい腹痛に襲われた。病院に電話すると、「すぐ来てください」という。夫は実家に帰っていて不在、タクシーを呼ぼうとしたが早朝でつかまらない。お腹を抱えてうなっているが、母は両手を合わせてお祈りしているだけで具体的に動いてくれない。結局、私の友だちにお願いして車で病院まで送ってもらい、手当を受けた。残留胎盤、胎盤の一部がお腹に残っていたのだという。
この時も母に対して、「私が苦しんでいるのに拝むだけで何もしてくれない」と恨めしく思ったのだった。しかし、母は知らない地に手伝いに来、何もわからない状況の中で、何とかしてあげたくてもできなかっただけなのだ、と今更ながら思う。
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娘が不登校になったとき、藁にもすがる思いだった。娘も助けてあげたいが、自分も楽になりたい。
知り合いが「内観に行ってみたら?」と勧めてくれた。
内観とは、屏風で仕切られた畳半畳くらいのスペースに座りひたすら思考するというもの。考える内容は、特定の人を決めて、その人に①やっていただいたこと ②やってさしあげたこと ③ご迷惑をおかけしたこと の3つ。考える相手は自分に近い人。5日間の内観の期間に3~4人くらいの人との関わりを考える。
娘に「行く?」と聞くと、「うん、行ってみる」彼女も今の状況を脱する糸口を求めていたのだろう。
年末年始の休暇を利用して箱根の内観道場を訪れた。
娘と部屋を分けられ、私は狭い空間で、まず母について考えた。(内観前の説明で、「最初はご自分のお母さんについて考えてください」と言われたと記憶している)
自分が0歳~5歳の間、6歳~10歳の間、10歳~15歳の間・・・と5年刻みで、それぞれ2時間ほど考える。時間になると道場の人が来て私の前に座る。
私が0歳~5歳の間、母にやっていただいたことは
・母の膝にのって「おつむてんてん・・」と遊んでもらいました
・母は毎朝5時に起きて、家族7人分の食事を作ってくれました
等々
やってさしあげたことは、ありません。
ご迷惑をおかけしたことは
・保育園に行くのをいやがって母を困らせました
という感じで報告。道場の人は黙って聞いて、黙って去っていく。
小さい頃は可愛がってもらったけど、大きくなってからは何もないよな、と考えていると、ふと高校生の時に母がピンクの毛糸でマフラーを編んでくれたことを思い出した。マフラーに続いて同じ毛糸でストールも編んでくれたっけ。
私結構大事にされてたんだ。そう気づいたとき、芋づる式に次から次へと思い出した。鬱の私に母が信仰を勧めたとき、腹痛に苦しむ私の横で祈っていたとき、母の頭は私を心配し助けたい気持ちでいっぱいだったのだと。その時だけではなく、いつも母は私を想っていたのだ。
世界で一番愛情を注いでくれている人に、私は少しも優しい感情を抱かないどころか迷惑がり疎んでいた。私は酷い娘だ。あんなに母が好きだったのに。
そのときの罪悪感は、逃げ出したいくらいきつかった。
内観を終えて家に帰り、母に謝罪と感謝の手紙を書いた。「あなたの娘に生まれてよかった」と。
娘のために行った内観だが、私が大きなことに気付かされた。娘よありがとう。当の娘は、「うーん、よくわからなかったよ」と感想(?)を述べていた。食事は美味しかったし源泉かけ流しの温泉も良かったね。(食事は黙食、お風呂も黙浴だったけど)
86歳で亡くなった母の葬儀は粛々と進められていた。
それまで長い間認知症を患っていたので、家族は悲しい反面少しほっとしていたのかもしれない。誰も涙を流している人はいなかった。私も、「母ちゃんも周りの人もよく頑張ったよね」と心静かに母を見送ろうとしていたが、出棺の時、最後のお別れと思った瞬間感情の糸が切れ、一人で号泣した。
母ちゃんが大好きだった、今でも好きだよ。ありがとうね。