みちべぇの道

道だとか橋だとかが好きで、走ったり歩いたり道に迷ったり

生まれて死ぬ話

先日読んだ「夏物語」の登場人物が、深沢七郎の「笛吹川」をチラリと語っていて、興味を持ったので読んでみました。

 

そこはかとなく、不吉なカバー絵(;^ω^)

 

戦国時代の甲州笛吹川の土手の小屋で暮らす貧しい家族の話。

Amazonでは、「生まれては殺される、その無慈悲な反復。甲州武田家の盛衰と、農民一家の酸鼻な運命。」と、随分おどろおろどしく紹介されている。そりゃ戦国時代なので、殺されたり、手柄をたてようと挑んだ戦で討ち死にしたりもするが、そんな凄惨な話ばかりではなく、一家六代、60年以上の年月の間、次々と赤子が生まれ、成長して、ほろほろと死んでいく、日常の営みの中の生と死が淡々と描かれている。

 

淡々と描かれているので淡々と読める。

淡々とし過ぎている、と思った。ものすごく俯瞰的。神サマが高いところから地上を見下ろしているような視線。だが、そこには慈悲とか希望とか感情的なものが感じられない。残酷なまでの事実だけがある。笛吹川と人の生活の移り変わりが、一緒に流れていく。

人の生は大いなる流れの中の泡沫(うたかた)、浮かんでは消えていく。

例えば、山で満点の星を見て、こんな広い宇宙の中の一つの銀河の中の地球の小さな島国で生きる自分は、なんという小さな、とるに足りない存在、と気づいたときの安堵、に近い感覚を、この本を読み終えたとき感じた。

「人の役に立たなきゃ」とか「認めてほしい」とか、「利己」とか「利他」とか「責任」とか「生きがい」とか、そんなことはどうでもいいんだよ、いつか全て無くなるよ、と小さな声で囁かれているような。ちょっとばかり弱った心に、川も時間も人も流れて消えていく感じが、しっくりと沁みる気がした。(自分に都合の良い勝手な解釈)

 

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母が亡くなった翌年の晩秋に公園を散歩していたら、もみじの葉に蝉の抜け殻を見つけた。抜け殻の主の蝉は、もうとっくに死んでいるだろう、抜け殻だけが葉にしっかりと足を踏ん張った形のまま残っている。

それを見たとき、ふと、歌人早坂類の歌が浮かんだ

 生まれては死んでゆけ ばか 生まれては死に 死んでゆけ ばか

 

どうしようもないんだね。

刹那の生、痛みを抱えて生きるには長すぎるけど。

 

早坂類のこの歌は、無常だけをうたったものではないようだ。歌の中には切実さと緊迫感がある。

穂村弘、「短歌という爆弾」によると

早坂類の歌の持つ)緊迫感は、この世に生きていることがただ一回限りの出来事だという作者の強い体感から生まれているように思われる。(中略)生の一回性、すなわちそのかけがえのなさこそは、ひとりひとりの体験や価値観の違いを超えて存在する唯一のものである」

 

この「かけがえのない」一回きりの生を愛おしむ気持ちと、「笛吹川」の「私たちはいずれ消えるから、肩の力を抜いていいんだよ」という考えと両方持っていければ、と思った。

 

 

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せっかく深沢七郎全集を借りたので、「楢山節考」も読んだ。ストーリーは知っているが読んだのは初めて。

 

主人公のおりんは70歳になり、村の風習に従って山に捨てられる。

寒村、口減らし、姥捨て、当時の社会福祉はどうなっているの?と怒ることもできるが、そういう時代だったのだ。

悲惨な話ではあるが、読後感は良く、「おりんの願うようになって良かったね」と思った。

おりんは、楢山もうでに(捨てられに)行く覚悟、というより願いを持っていた。楢山に召され、心安らかに浄土に行き、家族の食い扶持も助かる。母親を捨てることに躊躇する息子の尻をたたき、静かに山に向かう。

強い信念を持ち、信じるままに行動するおりんの潔さ、そして心根の美しさ。どんな状況にあっても幸せでいられるのは、こういう人なのだろう。