みちべぇの道

道だとか橋だとかが好きで、走ったり歩いたり道に迷ったり

生きのびたいのではなく生きたいのだ

穂村弘の「はじめての短歌」を読みました

 

 

短歌の作り方というより、短歌ってこんな世界だよ、という本(だと思う)

 

穂村弘は、「生きる」と「生きのびる」を分けて考えていて(厳密にいえば分けてないが)

 

ぼくらは「生きのびる」ために生まれてきたわけじゃない。

 

と言っている。

では何をするために生まてきたのか

それは、「生きる」ため

 

「生きのびる」ためにはご飯を食べて、睡眠をとって、お金を稼いで、目が悪ければコンタクトレンズを入れて……しなきゃいけないでしょ。はっきりしているよね。だけど「生きる」ってことは、はっきりとはわからない。一人ひとり答えが違う。

 

社会的に真っ当な人と認められて生きていくことも「生きのびる」で、そこから外れた変な人と見られるって「社会的な死」を意味するのでかなり恐い。

もちろん「生きる」ためには「生きのびる」必要があるけど、「生きのびる」ばかり視野に入れて生きていると、息苦しい。

 

ふーむ、深く納得

わかるけど、日々 生き延びようとしているよねぇ、私ら

仕事に行かなきゃいけないし、ご飯作らなきゃいけないし、お風呂に入って、歯を磨いて、雨戸をあけて、ゴミを出して、、社会人・家庭人としてちゃんとしなきゃ。

 

「生きる」人の歌は、

あまり素敵じゃないことを言っていても生き生きしている

 

雨だから迎えに来てって言ったのに傘も差さず裸足で来やがって(盛田志保子)

 

という歌が紹介されていて

これは極端な例えの気もするけど、なんだかキラキラしてる

雨に濡れたら風邪ひくでしょう、という「生きのびる」ための対策等は放棄して

迎えに来てって言われたから行ったの、約束したから

っていう 純粋な想いだけがある

この歌を詠んだのは20歳過ぎの女性

迎えに来たのは恋人か、旦那さんかと思ったのだけれど

実際には「妹」だと

妹、いいキャラしてる

迎えに行く、という約束はちゃんと守ったけど、その約束が何の役にも立っていないっていう、この子(妹)がとても愛おしい (*^-^*)

 

この歌の中の裸足で迎えに来る人間のオーラね、人間でないような異様な輝きがある。

その輝きの源というのは、「生きのびる」ということを顧みずに、「生きる」に純化した魂の輝き。

 

穂村弘が他の著書でも言っている「生(いのち)の一回性」とか「今ここを生きる」と、繋がるところなんだろうな。

 

誰に認められなくても、呆れられても気にしない強い心を持って、思いのままに、やりたいことをやりたい、と私も思う。

ほんとに、還暦過ぎた女が一人で100キロ歩こうなんて気が知れない、と社会的には一つも評価されないんだろうけど、

自分の命を思う存分使って生きたいのだと切実に思うわけです。

 

 

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今日は、雨が降る前に綾瀬の城山公園まで走った

 

早咲きの桜が咲いてた

 

ほのほのとした薄桃色

 

まめ桜? 黒い枝の存在感

 

晴れの日も曇りの日も、花は美しいです